反射炉へやってきました。鉄を作るための金属溶鉱炉です。 1858年(安政5年)、萩藩が大砲を造るために建設したもので、当時は水戸藩、鍋島藩、島津藩や、民間経営のものも相次いで建設されたけれど、現在残ってるのは日本に2基のみ。 残るひとつは、幕府が築いた静岡県伊豆の韮山のみという、貴重な史跡。 当時、萩藩には造船所もあって、着弾距離の長い大砲を造る必要があり、この地に反射炉が建設されたそう。 現在、萩に残ってるのは炉の煙突部分のみで、高さ11m。 玄武岩を積んだもので、上の赤い部分はレンガ積み。 |
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当時は、反射炉の管理所や、石炭・薪・鉄などの資材置き場、労働者用の小屋などが配されてた。 | ![]() |
右の画像は、溶鉱炉の構造。クリックすると大きくなります。 |
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続いてやってきたのは松下村塾。 吉田松陰が講義した私塾で、門下生には高杉晋作、久坂玄瑞、山県有朋、伊藤博文など後の明治維新の指導者となる人々がいました。 松陰は、斬首刑でその生涯を閉じますが、辞世の句を残しました。 「親思う 心にまさる親心 けふのおとずれ何ときくらん」 「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」 |
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講義室には、松陰の掛軸と石像があり、その前に史机。 講義を受けているような気分になる作りになってる。 |
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場所を移して、藍場川の畔へやってきた。 藍場川は、今から約260年前に、川舟を使った物資運搬や農業用水、水害防止のために開削された運河。 山口県は、政治的要人を多く出した土地でもある。 藍場川沿いには、明治34年以来3度首相を務めた桂太郎の旧宅もある。 |
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各家々には、藍場川に橋がかけられ、この小さな橋を渡って、家へ入ってく。 | ![]() |
川の上流に位置する旧湯川家屋敷。 橋を渡って敷地内へ入ってみる。 ここは、藍場川の水を敷地内に引き込んで流水式庭園を造ってる。 水は敷地内をぐるりと巡り、母屋で生活用水として使われた後、再び藍場川へ戻るように設計されてる。 |
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母屋には、お座敷や茶室があり、畳の感触が足に優しい。 |
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水が引き込まれた台所。 ここは「ハトバ」と呼ばれる、川に近づける階段を作ってるところ。 旧湯川家には、台所と、お風呂の2箇所にハトバが作られてる。 台所では、ここを利用して、野菜や茶碗を洗ってたそう。 |
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水のある場所って、どうしてこんなに気持ちが静まるんだろう。 ここに立ってると、かつて家が使われてた頃の、台所の喧騒が聞こえてきそうな気がしながらも、不思議な落ち着きを感じるのです。 |
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こちらがお風呂場。 入って左に湯船があり、画像下の光ってる所がハトバ。ここから、水を汲めるようになってる。 観光客で賑わう萩の中心地と違い、ゆったりとした時間が流れててよかとこでした〜。 |
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