2005.07.27 端島(軍艦島)

長崎旅行3日目の朝。
今回、旅行のメインに据えた軍艦島クルージングをする日がやってきた。

バスターミナルホテル前から長崎バスに乗って、揺られること約40分。
香焼行政センター前で下車。

今回、お願いしてる船は、美津丸。2人で5,000円。
バス停からすぐの場所に桟橋がある。
桟橋でしばらく待ってると、船長さんがやってきた。

今日の船は、高島への定期航路につかっている船。
甲板にいると、船長さんが軍艦島が載っている雑誌を貸してくれた。

高島でお客さんを降ろすと、私たち2人だけになった。
そのまま軍艦島周遊に向かう。

一緒に乗っていた船長さんの息子さんがポツリと話す。
「昔は軍艦島に行く人も多かったけど、上陸できんくなってからは人も減ってね・・・」

確かに、周遊している船は、私たち以外に見当たらない。
かつて、海底炭鉱の島として、日本で最も賑わいを見せていた場所が、長崎の港からほど近い海上にあった。
その姿は、長崎からも望むことができる。


高島には、端島の模型があり、当時の様子が分かるようになっている。

島の半分は、居住区として栄えていた。
そして、半分は活気の源、炭鉱の採掘を行い、積み出す港があった。

幼稚園、小中学校、病院、理容院、商店の他、パチンコ屋や麻雀施設、映画館などもあり、生活はこの島で完結できたという。
島が近付いてきました。

軍艦島は外海にあるため、波の害から島を守るために、護岸を高く造られている。
また、狭い居住区(居住区は面積にして僅か200m四方分)に、5,000人を超える人が住んでいたため、高層アパートが林立され、独特の景観を生み出した。


その島影が、軍艦「土佐」に似ていることから、軍艦島と呼ばれるようになったとか。
船長さんは、波の状態を見て、できるだけ近くに寄ってくれ、
「あれが一番古い建物、あれが学校・・・」と説明をしてくれる。

無人島となって31年。
海風にさらされ、風化した建物が、無言の圧力で迫ってくる。
その姿に息を呑む。

最も人工の多かった昭和30年代の人口密度は、東京特別区部のそれよりも遥かに高かったという。
この様相を目の当たりにして、それもまた納得。
叶うものなら、賑わっている当時の端島に来てみたかった。

大正時代に我が国初のコンクリート造の高層住宅が造られて後、高層アパートが次々と建てられ、建物は空中回廊で結ばれていたらしい。
ここは、日本の近未来都市だったのだ。

7階建ての端島小中学校。
島内で広いグラウンドはここだけだったため、メーデーや社員の運動会なども、この場所で行われたそう。
端島小中学校の奥にあるのは、9階建ての鉱員社宅(昭和20年建造)。
島内最大の建物で、屋上には幼稚園があった。
右端は、4階建ての端島病院(昭和33年造)。手術室や隔離病棟も備えられていた。
左が5階+地下1階建ての鉱員社宅(昭和28年建造)。
画像では切れてしまってるけど、ほぼ同じ建物が3棟並んで建設されていて、地下で連結して生協や共同浴場があったそう。

その隣、真ん中の大きな建物は、当時国内最高層だった9階建ての鉱員社宅(大正7年建造)。
ここと棟続きになっている建物の屋上には、土を知らない子供達のためにと農園も作られていて、子供から大人までがバケツに土を入れ、何度も往復して土を運んだとのこと。

右端は、昭和36年建造の8階建て鉱員社宅。

左が、5階建ての公営公務員住宅(昭和28年建造)。
高島町役場端島支所が入っていた。

その隣の、崩壊してしまっている建物は、2階建てだった昭和館(昭和2年建造)。
映画も上映できる多目的ホールとして利用されていた建物だったけど、平成3年の台風で壊れてしまった。

島内で最も高台に建設された4階建ての職員住宅(昭和34年造)。
島内で唯一、内風呂が設置されているアパートだったそう。
右端にちょこんと見えている三角屋根の建物の所が、端島神社跡(昭和11年建造)。
拝殿や鳥居は崩れてしまってるけど、神殿が残ってる。
真ん中の大きな建物が下請飯場。
我が国最古の鉄筋コンクリート造りで、大正5年建造です。
居住区の反対側が鉱業区で、今でも桟橋など一部の施設が残っている。

島の周りを一周したところで、乗組員の方が言う。
「高島で降りて定期航路で帰ってもいいですよ。料金は変わりませんから。」

それならばと、高島に寄ってもらい島内を周ってみることにした。



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